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魯山人『個性』を読む

北大路魯山人の『個性』を読んだ。

字でいえば、習った「山」という字と、自分で研究し、努力した「山」という字が別に違うわけではない。やはり、どちらが書いても、山の字に変わりはなく「山」は「山」である。違いは、型にはまった「山」には個性がなく、みずから修めた「山」という字には個性があるということである。みずから修めた字には力があり、心があり、美しさがあるということだ。

魯山人ほどの人が型の重要性を理解していないはずはない。この文章も型に対する陳腐な理解ではなく、型の恐ろしさを十分知り尽くしている人間の言葉と解すべきだろう。

型から入り、それに徹することによって自ずから型から抜け出し、個性は出てくるのであるが、その際重要なのは、自ら修得しようという「精進」である。

習うな、とわたしがいうことは、型にはまって満足するな、精進を怠るなということだ。

この「精進」への執念がなくては、型から抜けられない。

型を抜けねばならぬ。型を越えねばならぬ。型を卒業したら、すぐ自分の足で歩き始めねばならぬ。

ではこのためにどうすればいいか。最初にまず徹底的に「型にはまる」ことである。型に徹するためには、それまでの自分を一端全部捨てねばならない。これは極めて困難である。武道の修行を初めれば、誰でも「型通りに動く」ことがいかに困難かがすぐに分かる。

だが「型にはまって満足する」人とは、実はこの「はまり」が中途半端な人なのである。徹底して「型にはまった」人は、その徹底によって自ずと型を越え出て行く。なぜなら「自分の足で歩」くことができる人でなければ、型にはまりきることができないからである。

それまでの自分の「自然」と、型の要求する「自然」は最初は矛盾する。型通りに動いたり、考えたりすることは、普通の人間には最初、とても「不自然」なのである。自分の動きと型の要求する動きが齟齬したとき、中途半端な人は、自分の動きを大切にする。そういう人こそが、いつまでも型から抜けられないのである。

もちろんうまく型にはまれたとしても、途中で「精進」を忘れてしまっては、やはり型から抜け出せない。そういう人は、一応、「正しい」ことができるから逆に始末が悪い。

型にはまって習ったものは、仮に正しいかも知れないが、正しいもの、必ずしも楽しく美しいとはかぎらない。個性のあるものには、楽しさや尊さや美しさがある。

大切なのは「楽しさや尊さや美しさ」であって、「正しさ」ではない。「正しさ」なんて、誰でも辿り着ける。

しかも、自分で失敗を何度も重ねてたどりつくところは、型にはまって習ったと同じ場所にたどりつくものだ。そのたどりつくところのものはなにか。正しさだ。

魯山人は、自分で試行錯誤を重ね、精進を重ねれば、「楽しさや尊さや美しさ」が生まれ、さらには、型など習わずとも「正しさ」に辿り着けると考えていたようである。やはり天才だったのかも知れない。

さて、個性については、魯山人はこう述べている。

それでは、個性とはどんなものか。
うりのつるになすびはならぬ――ということだ。
自分自身のよさを知らないで、ひとをうらやましがることも困る。誰にも、よさはあるということ。しかも、それぞれのよさはそれぞれにみな大切だということだ。

それぞれにそれぞれのよさがあり、無い物ねだりをしてはいけないということである。

こうも言っている。

牛肉が上等で、だいこんは安ものだと思ってはいけない。だいこんが、牛肉になりたいと思ってはいけないように、わたしたちは、料理の上に常に値段の高いものがいいのだと思い違いをしないことだ。

だいこんがだいこんであることのよさを忘れず、型に囚われず、自ら修めようとする志をもって試行錯誤に励んだとき、楽しさも美しさも個性も自ずと生まれる。そう魯山人は言っているのである。あるいは逆に、それが生まれるまで「精進」せよ、ということか。

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