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落合博満『采配』(ダイヤモンド社)

落合博満『采配』(ダイヤモンド社)を読む。

出た時に買ってあったが、体調不良であまり仕事ができないので、読むことが出来た。

落合さんの本は、多分全部読んでいるはず。

どの本を読んでも、すごくまっとうなことをシンプルに語っておられると思うのであるが、おそらくそれが一番難しいのだろう。

年末にテレビで落合さんの特集をやっていたが、とても面白かった。何がかと言えば、中日の多くの選手が「落合野球は?」と問われ、「普通の野球」と応えていたからだ。私は野球のことをよく知らないが、まっとうな野球だと確信していたので、それを選手が語っているのを見て、嬉しかった。しかし、落合野球が普通の野球だとすれば、それを「オレ流」とよぶ人たちの考えている野球は、一体どういう野球なのだろう?

ところでこの本、ちょっと気になったのは、太字箇所である。私には、太字になっていないところに大切なことが書かれているように思われたのであった。

それにしても、落合さんほどの実績を残された方でも「オレ流」と呼ばれるのだから、私のいうことを学生がなかなか信じてくれなくても仕方ないのかも知れない、と自分を慰めるのであった。

武道部員にはぜひ読んでほしい一冊である。

羽生善治・岡田武史『勝負哲学』(サンマーク出版)

羽生善治・岡田武史『勝負哲学』(サンマーク出版)を読む。

羽生ファンの私としては当然面白かった。

将棋の羽生さんとサッカーの岡田さん。競技の違いを越えた共通点を見いだそうという企画であるが、私にとってはその違いが際だっていた。もちろん二人は共感している点が多く、むしろ表面上は意見の違うところもほとんどないのであるが、それゆえに、行間に滲み出る差が越えがたいものであると感じられたのである。それは将棋とサッカーの競技の本質に由来するのかも知れないし、羽生さんと岡田さんという個性に由来するのかも知れない。おそらくは両方だろう。

さて、面白かったところを少し紹介すると、まず羽生さんは、論理と直感の関係を尋ねられ、「その問題は将棋を考える上でいつも思考の中心にあることです」(14頁)と答える。その上で「データは自分の感覚を裏付ける情報でしかない」(15頁)、「一定水準まではデータ重視で勝てる。しかし、確率論では勝ち切れないレベルが必ずやってくる。そうして、ほんとうの勝負はじつはそこからだ」(16頁)だという岡田さんに同意しながら、こう述べている。

そうした確率だけを追究していけば、そこそこのレベルまでは行くと思います。しかし、その先の領域へさらに一歩を踏み出すためには、理論の延長ではなく、次元の異なる方法を考慮に入れなければなりません。(略)つまり、少なくとも実践においては、「論理」には思っている以上にはやばやと限界が来るんですね。おっしゃるとおり、理詰めでは勝てないときが必ず来ます。でも、ほんとうの勝負が始まるのはそのロジックの限界点からなんです。17頁

そして、

データに何をプラスアルファすれば勝利につなげられるのか。そのプラスアルファが感覚の世界に属するものなら、どうすれば、数値化できない非論理的な力を味方につけることができるのか。そのことが大きな問題になってきます。18頁

と述べる。

羽生さんの答えは何か。
一つは、「研鑽」である。

どうやって手を絞り込むかといえば、まさに直感なんです。……直感が選ばなかった他の大半の手はその場で捨ててしまうんです。……研鑽を積んだ者にしか「いい直感」は働かないはずです。22頁

その研鑽を積んだ「いい直感」はただのヤマカンとは違う。

選択は直感的に行われるが、その直感は、経験や訓練の厚い層をくぐり抜けてきているという感覚ですね。27頁

そういう直感はたいてい正しい選択をするという。

ぎりぎりまで積み上げた理屈を最後に全部捨てて、最終的な決断は自分のカンにゆだねる。高レベルな判断ほど直感にまかせるーとても納得できる話です。
直感は過失の少ない指針ですよ。盤面をパッと見て、「この手がいい」とひらめいた直感はたいてい正しい選択をします。その七割は正しい、というのが私の経験則にもとづいた実感です。28頁

絶対絶命のときとか大ピンチというときには、人間は意外に正しい判断をするもの。118頁

というのである。
二つめは開き直り。

開き直ることによって選択肢が絞り込まれる。絞り込まれれば直感も冴え、迷いも見切れて正解に近づく。118頁

三つめは「野生」。

私もいま、「野生」の必要性をすごく感じているんです。137頁

データやセオリーに頼りすぎて直感が鈍くなってしまっているということでしょう。138頁

「野生」が必要なのは、やはり「いい直感」のためである。その「直感」によって「決断」するのであるが、その決断はリスクテイクとセットだという。

決断とリスクはワンセットのものだということです。リスクテイクの覚悟のない決断は本来、ありえません。87頁

将棋には「相手に手を渡す」(58頁)というのがあって、他力によるところが大きい競技であると述べた後で、それでも、

他力を利用するような変化球ばかり投げていてもダメです。どこかでギアチェンジして、直球による真っ向勝負を挑まなくてはいけません。
そういうときは相手に手を渡すどころか、相手の得意な戦法の中へも思い切り踏み込んでいって、勝負をかけた血の流れるような斬り合いをする。その覚悟はいつももっているつもりです。62頁

というのである。

さらに羽生さんは恐ろしいことを述べる。

リスクとの上手なつきあい方は勝負にとってきわめて大切なファクターです。
将棋が急に弱くなることはありませんが、少しずつ力が後退していくことはあって、その後退要因として一番大きいのが「リスクをとらない」ことなんです。リスクテイクをためらったり、怖がったりしていると、ちょっとずつですが、確実に弱くなっていってしまうんですね。84頁

リスクをとらないと少しずつ弱くなってゆく……。将棋に限らず、あらゆることにおいてそうなのだと思う。しかもそういう状態のときは、自分がリスクをとっていないことにも気づきにくい。ましてや弱くなっていることも。何と恐ろしいことか。急に弱くなるのであれば、本人も自覚できるが、少しずつというのは……。本人が気づいた時にはかなり後退して手遅れということも多いのだろう。ここに羽生さんのトップを長年維持している秘密があるのかも知れない。

一瞬トップに立つことは、勢いがあれば可能かも知れない。ちょっとの間それを維持することも、才能があれば可能かも知れない。しかし、長年トップを維持し続けることはとても困難である。心を鍛え、日常生活から整えていかなければ、おそらくそれは叶わないのである。

だから私は、経験値の範囲内からはみ出すよう、あえて意図的に強めにアクセルを踏むことを心がけているつもりです。85頁

タイトル戦のような大きな舞台でこそ、いろんな戦法を実践したり、相手の得意な形に飛び込んでいくようなリスクを冒している積もりです。自分で考えても、そこに必要性と可能性を感じたら、かなりの危険地帯にも踏み込んでいく決断をするほうですね。86頁

もちろん羽生さんといえども、リスクをとると失敗することもある。だから、

リスクテイクの是非を、なるべく成功、失敗の結果論では測らないようにしています。
結果的にうまくいったか、いかなかったかではなく、そのリスクをとったことに自分自身が納得しているか、していないかをものさしにするようにしているんです。91頁

そして最後は、場になじむ。自然体。

支配とか制するとかいうと、やっぱり強すぎるかな。もっとやわらかい感じです。「場になじんでいる」ような。場を見下ろすのではなくて、自分も風景のひとつとして場の中へ違和感なく溶け込めている。そういうときは集中力も増すし、まちがいなく、いい対局ができますね。175頁

こと将棋という競技においては、その闘争心がむしろ邪魔になることもあるんです。180頁

だから私は、戦って相手を打ち負かしてやろうと考えたことはまったくといっていいほどありません。181頁

将棋は結果だけが全てである。その世界で長年勝ち続けるためには、「相手を打ち負かしてやろう」と考えていてはとても勝ち続けることは叶わない。

それよりはむしろ、相手に展開をあずける委託の感覚や、もっといえば、相手との共同作業で局面をつくり上げていく協力意識や共有感のほうが大切になってくるのです。181頁

勝負に「熱」は必要ですし、大切なものです。深い集中力も重要だし、法然としたリスクテイクも不可欠です。……しかし一方で、私の経験は、そういう熱っぽい感情をできるだけ制御しないと勝負には勝てないことも教えています。
勝負に一番悪影響を与えるのは「怒」とか「激」といった荒々しい感情です。……だから私は、感情をコントロールすることが将棋の実力につながるんだと思って、闘争心をむき出しにするのではなく、それを抑制する方向に自分を訓練してきたつもりです。182

ここでもまた羽生さんは恐ろしいことをおっしゃる。

「冷えた情熱」というか「熱い冷静さ」みたいなものです。そうでないと、落ち着いた平凡な一手は指せません。凡手の中から価値ある手、深い手を拾い上げてくることはできないんですね。182頁

「落ち着いた平凡な一手」とは……。上に引用してきたことをやれば、羽生マジックといわれるような「優れた一手」を指せるのかと思いきや、そうではないのである。凡人は、いつでも優れた一手を指そうとする。しかしほんとうに目指すべきは「落ち着いた平凡な一手」なのである。そこからしか「価値ある手」は生まれない。

そのために、

あまり気負わず、自然体でやっていきたいですね。そのほうが自分の力を出しやすいようにも思えます。185頁

だから、「タイトルにも執着はないということですか」と聞かれ、こう断言している。

ないですね。……それがモチベーションのいちばん上に来ることはありません。186頁

齋藤孝『結果を出す人の「やる気」の技術』(角川oneテーマ21)

 齋藤孝『結果を出す人の「やる気」の技術』(角川oneテーマ21)を読む。

 いつもの「齋藤新書」である。私たちの世代にとってはそれほど驚くことはないが、若い人に対する感覚には共感できるし、彼(女)らに対しそれをどう語ることができるかという点で、大変興味深かった。

 本書の前提は次のような認識である。

 若い人のナイーブで傷つきやすく心が折れやすい傾向は、修業感覚を味わっていないがゆえの弱さだと私は思っています。97頁

 私も同様の認識を持っている。しかもこの傾向がますます強くなっているように感じている。武道部ではこの「修業感覚」を存分に味わってもらえるようにしているが、それが年々難しくなってきている。
 つい最近も、この前「武道部に入って本当によかった」とtwitterでつぶやいていた部員が、今度は「モチベーションが上がらないから休部したい」と言ってきた。ちょっとしたことでモチベーションが上がったり下がったりする。もちろんそんなことは誰でも一緒である。しかしその揺れ幅が極端で、しかもすぐにそれで行動してしまうのである。

 モチベーションを行動原理とするのは彼(女)らの責任ではない。「自分のやりたいことをやりなさい」「自分がほんとうにやりたいことを見つけなさい」「自分を大切にしなさい」という言説の中で、むしろそれが奨励されてきたからである。その言説の中では、「やるべきこと」よりも「やりたいこと」が優先されるのは当たり前である。
 しかし、モチベーションを行動原理とすることの困った点は、一つのことを長く続けられないということである。一つのことを長く続けられないと、あることを「深める」という感覚、ましてや「極める」という感覚をもつことができない。何か一つのことを続けていれば、モチベーションが上がるときもあれば上がらないときもある。長く続けている人は、たとえ今下がっていても、続けていればそのうちまた上がってくるという経験を誰でも持っているものである。最近はその経験を持たない人が増えているのであろう。
 
 私は何もこの「やるべきこと」を、外からの強制と考えている訳ではない。これはあくまでも、自分の内的な決心として決めることである。 
 たとえば武道部は、入部も退部も自由である。当たり前である。だがその前提で、敢えて心構えとして言えば、いったん入部したからにはやめないという強い意志が大切である。「嫌ならやめればいい」という甘えは、本当に苦しいときの逃げ道をあらかじめ用意しておくことだからである。逃げ道があれば、ほんとうに苦しいときに踏ん張りきれない。これは小川三夫師匠が、他ではやっていけない人しか採用しない、とおっしゃる通りである。退路を絶ったところから修業は始まる。齋藤さんも「おわりに」でこう書いている。

 最近大学生がOB・OGとのつき合いがうまくないのでもったいないと感じる。先日、運動部出身の三十歳くらいの人に「先輩から飲みに誘われて、断ったことありますか」と訊いたら、「考えたこともありません」という答えだった。断るという選択肢がないというのは、強い。そんな人には精神力を感じる。
 いま一番欲しいのは、そんなタフな精神力を持ったビジネスパーソンだ。202頁

 冒頭にも書いたが、本書は「齋藤新書」である。当然「特訓モード」「修業感覚」など、モチベーションを上げ、成果を出すための具体的なノウハウも書かれているが、それについては省略する。

 さて、そのようなタフな精神は深く沈潜する。

 ゾーンをつかむためには、とにかく没入してみることです。57頁

 いまの時代は、一つのことに深く沈潜していく集中力を鍛える必要があると私は思っています。日常生活の中で、意識が非常に拡散しやすくなっているからです。58頁

 この「ディープに「沈潜」して核心をつかむ」ことは、非常に重要だと思う。沈黙して沈潜する。この能力を鍛えた方がいい。ちなみにそれには武道の形は最適である。黙って、黙々と同じ形を何度も何度も繰り返しやった人なら、この意味が分かるはずである。

 意味とか意義に関して考えることを一旦保留して、そこに没入してこなす。技術を高めることで余計なストレスを減らす。
 意味はあとからついてくるはずです。66頁

 齋藤さんは、「十代、二十代は「人生の修業期」と定めよう」(95頁)と述べている。

 しかし今の学校にはそれ(修業の要素ーー中森注)がありません。(略)「苦しい」と感じることを続けて、がんばったことを讃えるようなカリキュラムがないのです。
 そのため、無理難題のカベを突き破ることへの恐れがあります。自分の限界を超えることに挑戦しようという気持ちが湧きにくくなっている。
 学校から厳しさがなくなり、ゆるくゆるくなってしまったことがいいことだとは私には思えません。96頁

 齋藤さんが「特訓」や「修業の感覚」の復興を願うのは次の理由からである。

 現代の日本人が修業感覚を失ったことが、感情のコントロールが効かなくなったことと結びついていると考えるからです。179頁

 非合理なこと、理不尽なことは世の中に当たり前にある。そういう状況に、現代人はもう少し慣れなくてはいけないと思うのです。181頁

 その自分ではどうしようもない状況を肯定して生きることが、人間の肚を作るという。

 芸事でもそうですが、ある流派に入ったら、「ここの教えは自分とは合わないから別の流派に行く」などということはありえない。能ならば宝生流に行ったら、宝生流が運命、観世流に行ったら観世流が運命になる。
 師に就くというのは、ある種、人生をそこに託すことなのです。
 自分の環境をわが運命と受け入れて、そこで肚を据えてかかるしかない。そういった選べない状況が、むしろ人を強くしたのです。
 ところが自由や選択の余地があまりにも許されるようになったことで、メンタルが鍛えられなくなった。182頁

 「快か不快か」という価値基準を中心に物事を考えるようになってしまうと、努力したけれども報われないこと、快適ではないが意味のあることへの意欲が萎えてしまいます183頁

 今、私たちは、刹那的な「快・不快」、「主体性」、「個性」などによらない行動原理と倫理、夢と誇りをもてる物語を構築しないといけないように思う。その意味で、竹田青嗣師匠の「竹田欲望論」は非常に希望がある。全面展開されることを切に願う。

林良祐『世界一のトイレウォシュレット開発物語』(朝日新書)

林良祐『世界一のトイレウォシュレット開発物語』(朝日新書)を読む。

「おしりを洗って30年」という魅力的な帯が付いている。

肛門の位置はどこか?
おしりに当たって快適に感じる温度は何度か?
そのお湯をどの角度で当てるか?

著者達は自分自身の「おしり」を以て1日16時間交代で実験を繰り返し、ついに「黄金律」を導き出した。

お湯の温度38度、便座の温度36度、乾燥用温風50度、ノズルの角度は43度。
さらに、おしり洗浄の43度に対して、ビデ洗浄は53度。ノズルの噴出口は、おしり洗浄3穴、ビデ洗浄5穴。

その他にも多くのエピソードが語られている。苦労の中にも楽しさと充実感に溢れた本である。開発につきものの、他からのヒント、例えば信号機や車のアンテナにヒントを得て開発されたものについても言及されている。

本書で語られているのは、新しい「もの」づくりの開発物語であるが、この「もの」とは「文化」であると著者はいう。

 実は、TOTOが目指すものに「文化をつくり出す」ということがある。
 最新の技術によって、人々の暮らしを快適にする精進を開発してきたわけであるが、単に「困った」を解消するだけなら、それは「手段」でしかなく、文化の創造までには至らない。40頁

「私はTOTOに入社して、ものをつくり、文化をつくるとはどういうことなのかを徹底的に学んだように思う」という著者は、技術者に対し次のようなメッセージを送っている。

 シャワーだけ作っても、「ライフ」が変わるまではいかない。シャワーを使ってどんな生活がしたいのか。それを支える技術とはいかなるものか。技術者はそこまで考えて新しい技術を生み出すべきだと私は考えている。49頁

ものづくりの現場はこの20年で大きく変化したという。
著者の駆け出しの頃は、予算不足で実験用の試作品を自分で作らなければならないときがあり、どうやって作るか考えていると、「作るなんて10年早い、まず掃除や」と言われた、という。それが、

遠回りはあるけれども、時間があるのなら、こうしたアプローチのほうが正しい、と思う。それが技術者にとっての財産になるからだ。54頁

それに比べて現代は、「スピード感はあるが、その「知識」は非常に薄いものと言わざるを得ない」という。

ハードな修行時代、心が折れそうになっても、くじけることがなかったのは、その技術を使って、それまで世の中になかった商品が生まれ、流通していくということの面白さを実感したからだろうと思う。55頁

アメリカでの苦労話も実に興味深い。

アメリカにやってきて、私はいかに、これまでの自分が驕っていたのかを知った。(略)これまでは技術者同士でしか話をしてこなかった(コミュニケーションをとってこなかった)ことにも気がついた。(略)「自己の力を高めない限り、ここではまったく通用しないんだ」
 私は「成長」を目標に掲げた。74頁

また日本の強みである「現場の底時力」についてはこう語られている。アメリカで買い取った工場は、

 足の踏み場もないほど荒れ、従業員はラジカセから大音量の音楽を流して作業をしていた。とても統率がとれているとはいえなかった。
 ここに、(略)TOTOのものづくりの精神を注入し、工場の再生に取り組んだのである。そしてわずか1年で、ゴミひとつない工場へと変化した。(略)ひとえに、現場を変えることができたのは、現場を任された人間の推進力、本当の底力だった。83頁

さて、全く新しいものを作るためには、それまでの「常識」を壊さなければならない。

 私たちが最初に取り組んだのは、デザイナーの意識を変えることだった。(略)デザイナー自身が「ウォシュレットとはこうあるべき」という、「常識」にとらわれ、ブレーキをかけていたのである。103頁

まさに「Stay foolish」である。

2005年9月、1泊2日の合宿会議、アイデア検討会議「夢会(夢を見る会)」が開催された。「夢を持って仕事をしよう」というその会議で、「さらなるグローバル展開を見据えて」、「日本らしさ、日本人らしさとは何か」が話し合われたという。「日本のメーカーとして世界に打ち出すトイレのデザインとはどういうものか」という訳である。
そこで出て来たのは、

自然とともに生きて生きた日本人は、美しさを瞬間的に心に富める繊細な感性を日常的に育んできた。真の「気持ちのよい空間」とは、五感すべてが気持ちよいと感じて成り立つ。129頁

「禅寺の美しく掃き清められた庭」のような「静かな存在感」。いいですねぇ。グローバル展開するためには、日本の良さを徹底的に追究すべきだと私も考えているのであるが、TOTOのようなメーカーがそれを具現化して下さるととても有り難い。

それにしても、「サイボン式」「サイボンゼット式」「フラッシュバルブ式」「シーケンシャルバルブ式」等々、いろいろあることを知って驚いた。しかし一番驚いたのは1秒間に70回以上の脈動を与える「ワンダーウェーブ洗浄」である。まさしくワンダーだ。こんなことを知ってしまったからには、ノズルから噴射される水を見たくなるし、トイレでの水の流れ方をよくよく観察したくなってしまうというものである。これからは心してお尻を洗い、心して流さねばなるまい。

ノズルが清潔だと言い張るのなら、舐められますか?156頁

これまた厳しい言葉である。がこれは、一般使用者ではなく、女性開発担当者の言葉である。もちろんこの声に応えるべく、10年かけて新しい方式が開発された。

技術的問題などで、なかかな採用されなかったのだ。しかし研究者はあきらめることなく、これがノズル洗浄に使えると、ひそかに社内のウォシュレットにつけて検証を続けていた。そして10年がたち、きれいなノズルのデータを見せながら、「信用して下さい」と主張した。159頁

著者はこれを「開発者の「意地」」と言っている。

おしり洗浄の水で目を洗えますか?160頁

これはビデ洗浄に関しての、やはり女性開発者の言葉である。当然これにも答えるべく新しい技術が開発されたのである。

世界一のトイレを作る。その夢と誇りにあふれた本である。

補足)
50頁に、職人さんの試作品と量産化の問題が語られていて、これも興味深い。著者が考えているのはあくまで量産である。

魯山人『個性』を読む

北大路魯山人の『個性』を読んだ。

字でいえば、習った「山」という字と、自分で研究し、努力した「山」という字が別に違うわけではない。やはり、どちらが書いても、山の字に変わりはなく「山」は「山」である。違いは、型にはまった「山」には個性がなく、みずから修めた「山」という字には個性があるということである。みずから修めた字には力があり、心があり、美しさがあるということだ。

魯山人ほどの人が型の重要性を理解していないはずはない。この文章も型に対する陳腐な理解ではなく、型の恐ろしさを十分知り尽くしている人間の言葉と解すべきだろう。

型から入り、それに徹することによって自ずから型から抜け出し、個性は出てくるのであるが、その際重要なのは、自ら修得しようという「精進」である。

習うな、とわたしがいうことは、型にはまって満足するな、精進を怠るなということだ。

この「精進」への執念がなくては、型から抜けられない。

型を抜けねばならぬ。型を越えねばならぬ。型を卒業したら、すぐ自分の足で歩き始めねばならぬ。

ではこのためにどうすればいいか。最初にまず徹底的に「型にはまる」ことである。型に徹するためには、それまでの自分を一端全部捨てねばならない。これは極めて困難である。武道の修行を初めれば、誰でも「型通りに動く」ことがいかに困難かがすぐに分かる。

だが「型にはまって満足する」人とは、実はこの「はまり」が中途半端な人なのである。徹底して「型にはまった」人は、その徹底によって自ずと型を越え出て行く。なぜなら「自分の足で歩」くことができる人でなければ、型にはまりきることができないからである。

それまでの自分の「自然」と、型の要求する「自然」は最初は矛盾する。型通りに動いたり、考えたりすることは、普通の人間には最初、とても「不自然」なのである。自分の動きと型の要求する動きが齟齬したとき、中途半端な人は、自分の動きを大切にする。そういう人こそが、いつまでも型から抜けられないのである。

もちろんうまく型にはまれたとしても、途中で「精進」を忘れてしまっては、やはり型から抜け出せない。そういう人は、一応、「正しい」ことができるから逆に始末が悪い。

型にはまって習ったものは、仮に正しいかも知れないが、正しいもの、必ずしも楽しく美しいとはかぎらない。個性のあるものには、楽しさや尊さや美しさがある。

大切なのは「楽しさや尊さや美しさ」であって、「正しさ」ではない。「正しさ」なんて、誰でも辿り着ける。

しかも、自分で失敗を何度も重ねてたどりつくところは、型にはまって習ったと同じ場所にたどりつくものだ。そのたどりつくところのものはなにか。正しさだ。

魯山人は、自分で試行錯誤を重ね、精進を重ねれば、「楽しさや尊さや美しさ」が生まれ、さらには、型など習わずとも「正しさ」に辿り着けると考えていたようである。やはり天才だったのかも知れない。

さて、個性については、魯山人はこう述べている。

それでは、個性とはどんなものか。
うりのつるになすびはならぬ――ということだ。
自分自身のよさを知らないで、ひとをうらやましがることも困る。誰にも、よさはあるということ。しかも、それぞれのよさはそれぞれにみな大切だということだ。

それぞれにそれぞれのよさがあり、無い物ねだりをしてはいけないということである。

こうも言っている。

牛肉が上等で、だいこんは安ものだと思ってはいけない。だいこんが、牛肉になりたいと思ってはいけないように、わたしたちは、料理の上に常に値段の高いものがいいのだと思い違いをしないことだ。

だいこんがだいこんであることのよさを忘れず、型に囚われず、自ら修めようとする志をもって試行錯誤に励んだとき、楽しさも美しさも個性も自ずと生まれる。そう魯山人は言っているのである。あるいは逆に、それが生まれるまで「精進」せよ、ということか。

木寺英史『錯覚のスポーツ身体学』(東京堂出版)

木寺英史先生から『錯覚のスポーツ身体学』(東京堂出版)が届きました。
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ほんとうは大分前に頂いていたのだが、なかなかアップ出来なかった。
みなさん、ぜひご一読を!
からだと動きの錯覚を解いてくれること間違いなしです。

私やオオガケくん、武道部員も、写真で登場してます~

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『日本人の「正義」の話をしよう』(アスコム)

 岡野雅行さんの新著を読んだ。

『日本人の「正義」の話をしよう 白熱教室in岡野工業』(アスコム)

勝谷誠彦さんとの共著である。
買うのがちょっと恥ずかしいタイトルだったが、頑張って買った。
そう、私は岡野ファンである。
これまでも何冊も読んできたので、内容は聞いたことがある話がほとんどであったが、そんなことは私にはどうでもいいのである。私は情報を取るために本を読んでいる訳ではないからだ。
岡野さんのお話を拝聴できて、楽しい、もうそれだけで満足である。

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西岡常一ほか『木のいのち木のこころ』

 この本は私の人生の書の一つである。何回読んだだろう。読む度に新しい発見がある。つまり、その時々の自分の状態と課題、問題意識などに応じて本書がいろいろなことを教えてくれるのである。
 本書は、徒弟制度における技術伝承の実際とその意味が見事に語られている。何よりすばらしいのは、師匠と弟子と孫弟子の3世代にわたってインタビューされていることである。それによって、教える側、教えられる側の両方のことが分かるし(しかも同じ人の両面が)、その教育によって具体的にどのようなお弟子さんが育つかが分かる。しかも、本書にちょっとだけ名前の出てくる菊池さんがNHKのプロフェッショナルに出られたり、

を出されたりしているので、ますますよく分かる。
 西岡さんの教え方は、弟子の小川さんによれば次のようなものだった。

 「鉋屑はこういうもんや」
 って鉋を1回かけてその鉋屑をくれただけや。それを窓ガラスに貼っておいて、それと同じような鉋屑が出るまで自分で削って、研究しなければあかんのや。(p233)

 そして西岡常一棟梁もその師から同じように教えられた。

 刃物を研ぐというのはどういうことかといいましたらな、人からは教われませんのや。私が弟子の小川にいったのは、自分で削った鉋屑を見せまして、こんなふうにやるんだ、そういっただけですわ。
 私のおじいさんもそうでした。台の上に鉋を置きまして、鉋というのはこういうもんやと言いましてな、キセルの雁首で鉋を引っかけまして、そっと引っ張りましたんや。鉋屑がどこにも出てきませんのや。それで息をふっと吹きかけますと、ひゅるひゅると出てきました。そして「こないふうにやるのや」というだけですわ。

 カッコいい-。こんなおじいさんに私もなりたい(絶対無理だ)。そして次のように言う西岡棟梁も素晴らしい。

 目の前でやって見せてくれるんですから、できますのや。口で「向こうが見えるほどの屑を出してみい」といわれただけでしたら、「そんなん、できるか」と思いますが、目の前で簡単にやって見せてくれるんですからな。やらななりませんやろ。(85)

 なかなかこうは思えない。だがこれが徒弟制度を支える基本なのである。この少し前で西岡棟梁がこう書いている。

 教わるほうは「もっとちゃんと教えんかい」、「これだけじゃ、できるわけないやろ」、「おれはまだ新入りで親方とは違うんじゃ」とかいろんなことが思い浮かびます。しかし、親方がそういうんやからやってみよう、この方法ではあかん、こないしたらどうやろ、やっぱりあかん、どないしたらいいんや。そうやってさまざまに悩みますやろし、そのなかで考えますな。これが教育というもんなないんですかいな。自分で考えて習得していくんです。(75)

 この心構えがないと、よい弟子にはなれない。小川さんの話を聞くと、そのことがよく分かる。小川さんが弟子入りして最初に言われたのは、

「道具を見せてみい」だった。
 「それをちょっと見て、棟梁はぽんと捨てたもんな」。そして、
 棟梁がその後にいったのは、
 「納屋を掃除しておき」
 これだけや。
 「はい」
 って答えて納屋へ掃除に行ったよ。
(206)

 同じことをされて、「はい」と素直に掃除に行く自信は私にはない。だが驚くべきはその次である。

そこには棟梁の道具が置いてあったし、鉋屑なんかがあったな。
 「納屋を掃除しろ」ということは、「そこには自分の道具が置いてある。わしの道具を見てみろ。わしがおまえの鑿や鉋がまったくあかんというてる意味がわかるはずや。(略)掃除をしながらわしの仕事をよーく見ろ」ということだった。

 小川さんは、棟梁の意図をしっかりと受け取ったのである。このような心構えが出来ていないと、小川さんのように優れたお弟子さん、そして師匠になれないのである。「人の道具捨てやがって。なんで掃除せなあかんのじゃ」などと思っていては、この意図が分からない。だから、西岡さんも小川さんも、口を揃えて言うのは「素直さ」の大切さである。

 (西岡)親方のいうことにいちいち反対しているうちは、親方のいうことがわかりませんのや。一度、生まれたままの素直な気持ちにならんと、他人のいうことは理解できません。素直で、自然であれば正直に移っていきますな。そのなかから道が見つかるんです。(75)

 西岡さんの優れた指導法、技術に対する厳しさ、自然や命に対する価値観、人柄に感動し、小川さんの優れた心構えと情熱に感銘を受け、〈人〉まで読み進めると、初めて読んだ時は、非常に驚いた。えっ?これが小川さんのお弟子さん?と失礼ながら思ってしまったのである。しかしよく読むと考えが変わった。これが「徒弟制度は個性を生かす」ということの意味かと思うに至ったのだ。本書の価値を真に理解するためには、この〈人〉が不可欠なのである。聞き手である塩野さんに感謝である。

 究極の技術を伝承するためには、徒弟制度が最も効率がよい。それ以外にないといってもいいくらいである。また徒弟制度は、それぞれの個性を真に輝かせることができる。
 しかしそれゆえ、この優れた教育システムは、非常に危うい面をもっている。プロ仕様の包丁を素人は使えないように、このシステムは、使い方を誤ると悲惨なことになる。現実にはその方が多かったのかも知れない。だから徒弟制度というと非常に評判が悪い。苦い思い出をもっている人も多いだろう。しかし何度も言うが、本当に優れた技術を継承し、なおかつ自分の個性を遺憾なく発揮するためには、徒弟制度は非常に優れた教育システムなのである。あまりにハイレベルなので、師匠も弟子も非常に高い心構えを持っていなければならない。
 本書を読むと私は、いつでも6代目笑福亭松鶴師匠と笑福亭鶴瓶さんのことを思い出す(それについてはまた今度)。
 本書で西岡棟梁は、学校教育と比較して語っているが、私は学校教育に徒弟制度を入れるべきだと考えている訳ではない。それは無理である。目的も、生徒の数も違う。第一、学校は先生を選べない。例えば小川さんは、修学旅行で法隆寺を見て驚き、自分も作ってみたいと思い、西岡棟梁に弟子入りしている(もっとも西岡さんのことはよく分からず訪ねたようだが)。
 徒弟制度は、まず技術の結果(建物など)があって、自分もそれを作りたいという思いと、その技術を持った師匠へのあこがれ、いつか自分も師匠のようになりたいという夢が修行を支えるのであって、その前提がないところでは難しいのである。もちろん、武道などでもたまたま近所の道場に入門した、という場合もある。だが、それでも、必ずどこかで、「自分はこの師匠を自ら望んで選んだのだ」と強く確信し、師匠にあこがれるという、「師匠とその技術を学ぶ意味の掴み直し」経験がなければならない。それが来るまでは、「弟子」ではなく「生徒」である。だから最近の道場では、「弟子」と呼ばず、「道場生」と呼ぶところが多い。もちろん徒弟制度を採用している道場は非常に少ないだろう。

 また本書には、高田好胤さんの話が少し出てくる。これをきっかけに、「話の散歩道」(CD-BOX)を購入して拝聴したが、これまた感動の連続であった。
 あんまりいい本なので、武道部の課題図書に指定してある。

工藤公康『47番の投球論』

47番の投球論 (ベスト新書)

発売元: ベストセラーズ
価格: ¥ 735
発売日: 2009/03/14

 出てすぐに読んだ本であるが、そのままにしてあったので、少し書いておく。

・自問自答
 私も常々力説している「自問自答」(自感自答)について語られている(pp36-37)。武道においても、「それを延々繰り返すしかありません」。

・見え方
 ピッチャーとキャッチャーとでは、「バッターの見え方」が異なる(p51)ということを、初めて知った。言われてみれば当たり前かもしれないが、両者で見ているものが違うということを、私は今まで考えたことがなかった。なるほど、そういうことなのですね。

・ボールの投げ方
 武道的に最も興味深かった。武道的な観点から、ピッチャーが「腕を強く振る」というのは絶対ウソだと考えていたが、それを優れた投手がきちんと語ってくれている。
 
 誤解されている人も少なくないと思いますが、ボールは腕を振って投げるのではありません。(略)(p53)

 この後、ボールの投げ方が詳しくイラスト入りで解説されている。解説自体は「体の回転」に力点が置かれているが、私としては、さらりと出てきた「しっかり胸も張らず」という一言が印象に残った。ここに秘密があるのである。だが「体の回転」と胸の張りの関係については詳しく説明されていない。おそらくわざとだと思う。

・最高の出来
 工藤選手は99年が生涯最高の出来だったという。

 とにかく、バッターがよく見えていました。打席に立っているバッターをひと目確認するや、こういうふうに投げたら外角低め、あるいは内角高め、とフォームの微妙な感覚だけで投げ分けることができたのです。(p95)

 投げる時の意識が、キャッチャーミットやコースではなく、自分のフォーム(体の動き)に向いている。さすがである。「自問自答」を繰り返していたからに違いない。私もそのくらい空手の形を練りたいものだ。
 しかも、驚くべきは、

 だいたい、あのときの僕はネクストバッターズサークルに控えるバッターまで見えていました。(p96)

 すごいですね。

・意味を求める
 工藤選手は、全てにおいて意味を求めている。キャッチャーが出すサインもそうだし、自分が打たれたことについてもそうだ。

 結果的にヒットにはなりましたが、あれの意味するものは「ワンスリーのカウントからでも立浪は積極的に打ってくるから気をつけろよ」というメッセージであり、僕の次に投げるピッチャーに残すことができたのです。(p114)

 キャッチャーを育てるために、打たれるのが分かっていてサイン通りに投げたという話は有名であるが、見ているもののスケールが大きいですね。

・師匠からの学び
 本書には、師匠東尾氏とのことも書かれている。

 僕の師匠であり、今でも尊敬する大先輩です。
 しかし、その師匠から直接何かを教わったことはありません。ただ、間近でいろいろと感じとらせてはいただきました。(略)
 これからの自分の“手本”となるべき人に身近で接しながら、学び取とうろとしました。たとえば、
 「今はいいかもしれないが、これからはストレートとカーブだけじゃあ抑えられんぞ」
 こんなひと言をくれました。
 では、どうすればいいのか? それについては話してくれませんでしたが、このひと言をヒントに、「では何をすべきか」と考えていくことができたと思っています。(p118)

 これは後で述べる「考える」ことの重要性と繋がっている。

・準備力
 何か事にあたるにおいて最も大切なのは準備だと思います。
 プロならばあらかじめ“仕事”のための準備をしておくことは必要最低限のマナーであり、(p128)

 この後、試合前の「ルーティーン」について語られる。工藤選手も、やはりきちんとしたルーティーンをもっているのである。

・考えること
  考えることで成長する(p133)
 自覚がなければただ去るのみ(p139)

 素晴らしい体に恵まれ、特に筋肉、骨格などは同じプロ選手として羨むばかりのものをもち、投げればすごいボールを放る。それでも長続きせずに去っていく選手は少なくありません。
 つまり、「考える」ことをしなかったからだと思います。(p140)

 答えは聞いてはいけないんです。答えは自分で見つけるものなのです。(p175)

宇津木妙子『宇津木魂 女子ソフトはなぜ金メダルが獲れたのか』

宇津木魂 女子ソフトはなぜ金メダルが獲れたのか (文春新書)

発売元: 文藝春秋
価格: ¥ 777
発売日: 2008/10/16

 読んでいてとても嬉しくなった。宇津木さんのような指導者がいる限り、そしてそれを信頼する若者がいる限り、未来は明るい。
一本筋の通った人間の、強さと温かさがよく伝わってくる本である。指導者としても、修行者としても、とても参考になる。
上野選手争奪戦における行動、選手の叱り方、代表監督を引き受ける時の条件など、全てにおいて筋の通し方が見事である。

 「私は妥協しないよ。監督に服従できない者は去ってもらう」と「監督宣言」しました。(61)
 「おい、伊藤。ふざけるなッ。私がどういう監督か知っているよね」(47)
 容赦なくやりました(62)
 私は、こういう態度は絶対に許しません。(79)

 厳し。

 私は毎日選手にいろいろな話をしますが、ときには私の話が前日とは正反対に聞こえることもあると思います。(略)
 また、ある時は練習前のストレッチをしながら、選手同士でおしゃべりをしていました。
「これから練習を始めようという時に、何をやってるんだっ、一日中、準備運動してろ!」
ろ本当に準備運動をさせました。
 後になって聞くと、彼女たちにも言い分はあります。その選手たちは練習内容について話をしていたのだと言うのです。彼女らにしてみたら、まったく理不尽に怒る監督です。
 しかし、そんな話には聞く耳を持ちません。私は「練習が始まったら一瞬たりとも気を抜くな」と言っているのです。勝つためには、「練習は試合と同じように、試合は練習と同じように」やらなければなりません。そのために全体で行う練習時間を短くしているのです。私に言わせれば監督に疑われるような態度を取った、それだけで自覚が足りません。
 監督は選手に、「昨日はこう言ったけどね」とか、「君たちの言い分もよくわかるけど」などといちいち説明する必要はありません。物事はすべて、一言でいい表せるほど単純ではないのですから、監督が日々矛盾に満ちたことを言うのはむしろ当然です。(170)

 しかし、この厳しさは、非常に繊細な神経に裏打ちされている。「人間」というものをほんとうによく知っておられる。そしてチーム作りや目標達成指導の技術もプロフェッショナルだ。そのことが本書を読むとよく分かる。
監督として、自分の人間としての限界にまでチャレンジし、人間として真正面から選手と向き合う。繊細、かつ温かく、そして厳しく。そしてプロフェッショナルな指導技術。どこにも妥協はない。
そんな宇津木さんのような指導者に出会った選手は本当に幸せだろう、と思う。

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